『砂髪、滝雪、秋眼……』
「ん?」
『この三人が操士の生き残りね。三人ともまだ、その意味をわかってはいないわ』
「そうか……」
  由香が杯に固執しているのが、日登美は怖かった。日登美には察しがついているのだ。

  杯という、命の床の正体。そして意味。
『歌ってあげるから……眠って、由香』
「ああ。そうするよ……日登美」
  声で歌わず、心で歌う。優しく、由香を愛でるように、どこまでも優しい歌声。誰が聞いても、

  それは極上の子守歌だ。壁一枚隔てた隣の部屋でも、その歌は聞こえる。
「いい歌……」
「日登美の歌だよ。よく似てると思わねぇか? 杯の歌によ」
「そう……?」
  ベッドに寝ている穂駆。その上に浮かぶ恵麻。
「命の床か……。何なんだろうな……」
「さあね。考えてわかるもんじゃないよ」
  恵麻は浮いたまま、寝返りを打つように反転し、穂駆に背を向けた。
「そうだな……。知ってっか? 夜の貴族、昼間はすげぇ弱いんだぜ?」
「知ってるよ」
「何でやらねぇんだよ?」
「休戦って言っただろ? だからだ」
  くるっとこちらを向き、恵麻は無表情で当たり前のことのように言った。風が止まる。水がたぎる。

  炎が絶える。土が喘ぐ。夜魔たちも、その身を痩せさせ衰弱の一路をたどる。減り行く人間に、

  夜魔たちは絶望を隠しきれない。夜の貴族が食うから減るのではない。自らの手で、破滅の道へ

  と進みつつあるのだ。一匹の夜魔は夜の駅にいた。街灯の上、一人の女を口説く、二人の男。
  ――欲望……焦り……? 名誉か……?
  その夜魔は苦しくなった。心中を見抜くその夜魔は、男の心中を覗き狂ってしまいそうになった。
  欲望は生への執着。だが、名誉とはなんだ? そしてこの恐怖はなんだ?カラスの衣を借りていた

  その夜魔は、自分の守るべき人間に食いつきそうになるのを堪えた。女に行かれた男二人は

  ニタニタと笑み合っている。
  ――何がしたいんだ、こいつら? 夜魔はあたりを見回し、さらに絶望した。見た目ばかり飾った

  男女。男たちが持っているものは黒い欲望を隠す、どこかから仕入れてきた優しさ。夜魔は発狂し、

  命の灯火を絶った。その始終、操士の秋眼は感じていた。今は同じ、人間の形をしている。
  グレーのスーツを着て、切れ長で美しい眼に眼鏡をかけている。美形の青年だ。
「つまらん……」
  そんな男女が演じる、愚かしい舞台を見て、秋眼は笑った。
「欲が小さすぎる……」
  そうつぶやいた時、秋眼の背後から一人の女が声をかけた。
「お兄さん」
  着飾った女。秋眼の眼が鋭さを増し、気を巡らせた。
  ――腹が立ったからだ。
「その腹は命の床か……? それとも欲望の壺か?」
「え?」
  言った刹那の女の心を、秋眼は読んだ。 この人……もしかして変態?そう感じ取った時、

  女はすでにこの世から消えていた。
「腐敗した床からは……腐敗した命しか産まれん……」
  砂髪は夜闇に姿を変え、駅前の繁華街を後にした。由香たちが起きたのは昼過ぎ。
  家政婦が人数分の昼食を用意してくれた。
「今夜もお仕事ですか?」
  感じのいい、中年の家政婦は由香たちのことを知っている。
「ああ」
  由香が答えると、家政婦は穏やかに微笑んだ。自分の息子に笑むより、優しさがあるかもしれない。
「気をつけてくださいね」
  由香も笑顔で答えると、家政婦は家の掃除を始める。用意されたのは、野菜が多めに入ったシチュー。
  日登美に食べさせるのは由香の仕事。卓につけ、口元にスプーンを持っていくと、彼女は不思議と口を開く。
「あっち!」
「へぇ、おまえも感じるのか?」
  熱がった恵麻を、穂駆は笑う。
「失礼だな。感覚はオンオフ切り替えできるんだよ。料理は熱いのも味だろ?」
「へいへい。ところでよ、由香」
「ん?」
「オレの勘なんだけどよ、今夜あたり大物の夜魔が動くぜ。そろそろ師走だ。水煌龍の機嫌取りの

  季節だが政府付きの法師はやってねーだろ」
  と言って、穂駆は恵麻を見やった。
「ボクが殺しちゃったから。アハハハ……」
「砂髪の野郎どももそれに乗じる気じゃねぇのか。ついで言えば政府のやつらもよ」
  水煌龍とは、夜魔の中でも最高位に近い。
「杯に向かうのか」
「たぶんな。奴らはそれを追う気だろ」
  昼間だから感覚が鈍く、集まっているであろう法師の気配もぼんやりとしか感じられない――

 法師たちの九割が政府付きの人間である。
  金で雇われているので、傭兵と言ってもいいだろう。普段は秘書として付き人として、依頼主の

  そばにいる。ビシッとしたスーツに身を包み、長い髪を一つに縛った女性。彼女は文部総省大臣の

  秘書という肩書きの法師――牧原美佐子。
  昼下がり、カーテンを閉め切った執務室で、美佐子は男の前に立っている。
  中年ぶとりした、よく言えば貫禄のある男はたばこを吹かしながら怪訝そうな顔をしていた。
「杯の入手、夜の貴族の件、あとどれほどかかるんだ?」
  気を逆立てる嫌らしい声にも、美佐子は動じない。
「ご報告した通り、例の邪魔により戦力を削られました。朝の便で応援がきていますので今宵こそは」
「……ふむ。今夜は水煌龍の動く夜らしいな。どうするんだ?」
「杯に酔わせ、追わせます。わたし共の認識力では杯の発見は不可能に近いゆえ……」
  美佐子はその切れ長の眼を伏せ気味にした。
「……時の床、杯を得れば私は歴史の支配者だ、頼むぞ。今夜はホテルに泊まる。何かあったら報告にあがれ」
「かしこまりました。日没、水煌龍に合わせて行動を開始します……」
  浅く一礼し、美佐子は部屋を出た。
  牧原美佐子、彼女は幼きころより語法を得ていた。あくまでも護身のためではあるが。
  ――彼女に従う法師たちの数は数十人。日本に存在する法師のほぼすべてと言っていいだろう。
  彼女たち法師も、杯に何らかの期待があるようだ。


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