杯
「そうじゃの、そういう愛もある」
「!」
滝雪は心が読める――忘れていた。
「わしにあるのはそんな程度ではないのだ。この時代の詩梳を見て思うた。杯に嫉妬し、詩梳
を離して自分の物としたかったのじゃ」
滝雪の白い手が、そっと氷柱に触れた。中の由香は静かに眼を閉じている。
「杯って……なんなのよ?」
「ぬしは知らぬほうがよい。ここまで知っておるのはわしだけじゃ。頭領も知らぬ。敢えて言
うのなら……杯は由香の子を身籠もる女じゃ」
「なっ!?」
沙紀が驚く顔を見ながら、滝雪はうっとりとして氷柱に頬を寄せた。
だが、滝雪の表情はすぐに変わり、驚愕した。
「馬鹿な!」
閉じていた由香の眼は開き、徐々に動き始めていた。
瞳が赤い――沙紀は瞬間、絶望せざるを得なかった。
迂闊すぎた。沙紀も滝雪もそう思った。氷柱の中とて、歌は聞こえるのだ。
――由香は酔った。
「由香ぁ!」
「くああああっ!」
真っ赤な目の由香は氷柱を粉砕した。
滝雪はすぐに飛び退き、新たな氷柱を作り出した。
「ぐくくくぅぅ……」
滝雪を目の当たりにし、由香は下卑た笑みを浮かべた。
跳んだ。
雷よりも早く動き、滝雪はその動きを捕らえきれない。
「詩梳! ああっ!」
「由香!」
沙紀の眼に由香が入った時、彼は滝雪の首筋に噛み付いていた。
――喰う気だ。
「フフ……詩梳……」
滝雪は笑って、由香を撫で、抱きしめた。
「喰うなら喰うてくれ。おぬしに喰われるのなら、わしは本望じゃよ……詩梳」
「何言ってるの滝雪! 由香を戻して!」
「杯の酒に酔った者はけっして醒めぬのじゃ……。ああ、詩梳――」
二人の下には、滝雪の金色の血で水たまりができていた。
滝雪は至高の顔だ。沙紀はわけもわからず悔しかった。
「穂駆……恵麻……!」
どうしていいのかわからず、二人に助けを求めた。
由香が怖かった。
「ぐあううっ!」
「はあう!」
由香が喉の半分をかみ切って、飲み込んだ。滝雪は由香を抱きしめたまま、離さない。
「はぁ……あぁ……んくっ……! 操士はのう、簡単には死ねんのじゃ……詩梳よ。今はお主
が喰っておるのはわしの実体。はあうっ! くぅ、ふふ……今は存在を重ねておるがの分離す
れば死にはせんのじゃ……のぅ……詩梳……」
喉を裂かれたにも関わらず、滝雪は美しい声で喋り、由香を撫でる。
立ちすくむ沙紀の隣に、一人の男が湧き出た。
「滝雪……オレを裏切る気か……」
「!! 砂髪!?」
砂髪は青年の姿をしていた。黒いスーツを着ていて、短い銀色の髪。そんな変哲のない格好
で夜に浮いている。
「……沙紀、わかったろう。夜の貴族とはあの程度の知性しか持ち合わせてない」
「違う! 由香は酔ってるだけよ!」
「……愚かな。おい! 滝雪! どういうつもりだ!」
砂髪がそう怒鳴ると、滝雪は眼だけを彼へと向けた。
「頭領にはわからぬ……わしは死にたい。長い時を生きるのはもう嫌じゃ……」
「滝雪貴様……!」
「杯ももうよい。こうして詩梳と会え、抱けた……それだけでよい」
右腕に噛み付いた由香は一度滝雪を離し、着物の襟元をつかむと左右に引き裂いた。
「ゆっ――!」
獣のような由香の行動に、沙紀は絶句した。
足が震えてきた。
滝雪の肌。それは名にもあるように、雪のような白さだ。豊かな乳房を、金色の血が伝う。
「由香あぁぁ!! やめてよおぉぉ!!」
沙紀の瞳から涙がこぼれる。
真っ赤な瞳。酔った由香に沙紀の声は届かない。
「くっ……滝雪から離れろ!」
――気配が動いた。
砂髪の存在が跳んだ。由香にだ!
由香の動きは一瞬だった。
裸の滝雪を突き飛ばすと、刀を出して一振りした。その一振りは砂髪の存在を斬った。
キィィンッ!
その音が沙紀の耳に届く前に、由香は倒れた滝雪を銜えて跳び去って行った。
「由香!」
「滝雪!」
沙紀と砂髪が同時に追う。
ビルの上へと跳んだ由香は暗がりを目指して走る。
――歌は止んでいた。
