杯
『……由香ちゃん……もうわたしの歌には答えてくれないの?』
日登美は切な表情で、そう呟いた。杯という体は際限が利かない。感情の制御は理性でなく
、
すべてが本能に委ねられてしまう。
生き物が生き物として生きるために必要な本能だけが、杯の大半を構成している。残ってい
るのは、酒を受け入れる場所だ。
由香は部屋から、その様子を見ていた。歌を聞いても、心は引かれない。それはとなりにい
る沙紀のせいだと、由香は思った。
楚良斬りを握り、由香は沙紀をまっすぐに見た。
「行くの……?」
弱々しくはあるが、ハッキリとそう言った。
由香には正直に沙紀が見えている。今まで抱いていた感情を、表で感じる。抱いている間も
感じていた――喰ってしまえという夜の貴族の本能。これから堪え続けていかなければいけな
い業。
「ああ……オレが行かないと終わらないからな」
「……そっか」
沙紀はベッドの上で膝を抱いた。
くすんと鼻を鳴らし、沙紀は笑って見せた。
「――由香に抱かれて、思い残すことはなくなっちゃった。食べてもいいよ」
「バカ」
上着を羽織り、由香はそう言って背を向けた。
「何のために、杯を裏切ったんだ? オレは?」
「え……」
「おまえの未来を作ってくる――」
ドアノブに手をかけた由香に、沙紀は叫んだ。
「待って!」
足を止め、由香は振り返る。
「……わたしたちの未来、作ってきてね」
「そうだな……」
由香は微笑みを残し、部屋を出た。
一人残された沙紀はぎゅっと自分を抱き、由香の無事を祈った。
